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更新日:2025年8月1日

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やっぱり楽語は目黒に限る。

特集

戦後80年 目黒区民の戦争体験 ”忘れない、平和が消えた日々”

令和7年、戦後80年を迎えます。平和が当たり前でなく、戦争の影響を強く受けた日々を、私たちはどれだけ想像できるでしょうか。今回の特集では、目黒区で生まれ育ち、戦争を体験した二人に、当時の暮らしや疎開先での経験、空襲の記憶などを語っていただきました。身近なまちで起きた出来事を通じて、「平和とは何か」をいま一度考えてみませんか。

お問い合わせ:総務課総務係(電話:03-5722-9205、ファクス:03-5722-9409)

夜空がだいだい色になったあの日、めぐろは焼け野原になった

臼田禮子(うすだれいこ)さん(92歳)

昭和8年、目黒区東町(現在の目黒本町5丁目)に生まれる。
戦時中に山梨県や山形県へ疎開。
女学校では学徒動員も経験。
戦後、目黒区に戻り、復興するまちの変化を見守りながら暮らす。

私が幼い頃の目黒区は、畑や牧場が広がっているのんびりしたまちでした。川遊びをして過ごしていた私が、最初に戦争を知ったのは、小学3年生の時。ラジオから流れた日米開戦の放送でした。その日を境に戦争の影が色濃くなってきました。配給が始まり、お米はめったに口にできなくなり、サツマイモや豆を混ぜたご飯が当たり前に。まちの人はみんなもんぺをはいて、「我慢すること」が日常になっていきました。

昭和19年には、集団疎開で山梨県の農村へ。何よりつらかったのは、空腹でした。掘り残されたサツマイモを拾ってかじるほどひもじかったです。隣村の人が見かねて食べさせてくれたおはぎの味は、今でも忘れられません。

進学のために目黒区に戻った矢先、昭和20年の大空襲を経験しました。警報が鳴り響く夜に東京湾の方角を見ると、空がだいだい色に染まっていました。空襲を受けた翌朝、私の家も焼けてさら地になってしまい、多くの人が亡くなりました。焼け跡に集められた黒焦げの遺体にも慣れてしまって、何も感じなくなっていました。

戦争は、悲惨です。勝っても負けても得をしません。だからこそ、平和な日常の尊さを次世代の人々には感じてもらい、生きることの喜びを実感してもらいたいです。

記憶の場所 すずめのお宿緑地公園

目黒区で空襲に遭った臼田さんは、当時、近くの竹林に逃げ込んだそうです。この場所は、かつてタケノコの産地として知られていた目黒区の様子を現在に残しています。

生まれ育った原町から遠く離れた地で焼夷弾から逃げ続けた

齊藤清子(さいとうきよこ)さん(91歳)

昭和8年、目黒区原町に生まれる。
原町小学校に通っていた昭和19年に、山梨県に集団疎開。
終戦後、目黒区に戻る。
大学卒業後は教職の道に進み、大岡山小学校・原町小学校
などで教員として勤める。

小学校高学年になるまでは幸せな学校生活でした。家から西小山に抜ける通りには、おすし屋さんやおそば屋さん、パン屋さんが立ち並び、にぎわっていたのをよく覚えています。そんなうららかな暮らしに変化が訪れました。昭和19年の春に、アメリカの偵察機が原町小学校の上を低空飛行したのです。その後、平和な日常が少しずつ失われていきました。

昭和19年9月に甲府市へ集団疎開したのですが、戦況が悪化し恐れていた事態が現実になったのです。昭和20年7月、大規模な空襲に見舞われました。

昭和20年7月6日、おやすみのあいさつをした時、窓の外が明るくなりました。焼夷(しょうい)弾が甲府のまちに落とされたのです。B29(爆撃機)が編隊を組んで飛んできて、無数の焼夷弾が降ってきました。山へ逃げ込む人々や建物の上で爆音とともに燃え上がりました。私たち児童は厚い布団をかぶりながら夢中で山やお寺の墓へと逃げました。

終戦とともに、平和な暮らしが送れるようになり、やがて私は、教職の仕事につきました。歴史学習の最後には、自分が味わった、戦争の体験を児童に伝えようと努力しましたが、平和な日常の中で生きている児童には、戦いの恐ろしさは、なかなか伝わりません。それでも、この平和の尊さを大事にし、戦争は決してしてはいけないことを、次世代へ伝えていかなければなりません。これが戦争の中を生きてきた、私たちの仕事だと思います。

記憶の場所 碑文谷八幡宮

昭和17年から終戦まで、毎月8日は大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)とされ、戦勝祈願などが行われていました。当時、齊藤さんは、児童全員で碑文谷八幡宮にお参りされたそうです。

目黒区の平和記念事業

区では、平和都市宣言に込められた誓いの実現を目指し、平和に関するさまざまな事業を行ってきました。

昭和60年度 昭和61年度

  • 目黒区平和都市宣言
  • 第1回平和祈念のつどい実施
  • めぐろ平和の鐘設置
  • 第1回平和の石のつどい実施

区は平和憲法を擁護し、核兵器のない平和都市であることを宣言し、第1回目の平和祈念のつどいを実施しました。

平成2年度

平和の特派員の広島派遣を開始

未来を担う子どもたちに、原子爆弾の恐ろしさ、戦争の悲惨さ、そして平和の尊さについて考え、学ぶ機会を提供するため、広島市へ派遣事業を始めました。

平成17年度

戦後60年平和祈念のつどい 平和祈念合唱を実施

戦後60年目の平和祈念のつどいでは、区内小学生の合唱団による合唱を行いました。

令和2年度

被爆体験記録集を作成

戦後75年の節目を契機として、区民の被爆体験記録集(動画・冊子)を作成しました。

被爆体験記録集はこちらからご覧になれます。

被爆体験記録集の詳細を見る

令和7年度

「空襲記 銃後の目黒と疎開した我が子の記録」を刊行

区民のかたが執筆した、原稿用紙160枚に及ぶ戦争体験記録が発見されました。この記録をご家族へのインタビュー・資料解説・論考と共に一冊にまとめて刊行します。

お問い合わせ:めぐろ歴史資料館(電話:03-3715-3571、ファクス:03-3715-1325)

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